多重思考の展開

ゆるーく綴るばらばらな思考の断片たち。

No one can be perfect.

人生のライフログを取ることを始めた。

 

睡眠時間から日々の活動、体重、運動時間など。

こうしてみると、自分がかなり不規則な、ストレスの多い生活を送っていることがわかった。

そして、TVやネットを無駄に長い時間見ていることも…

 

今までは、Inputが多すぎた。

これからOutputの量を少しずつ増やす。

劇じゃなくて人形劇

浄瑠璃などでは、わざわざ一体の人形を3人で動かす。

 

それだけの労力を使うなら、人間が演じた方が早いのではないか。

 

わざわざ人形を使う理由は抽象性だろう。

人が演じると、役にその役者の人間性が加わる。

個性の排除だ。

 

また、人形は劇が終わってもそこに存在する。

操者は移り変わっても、いつまでも変わらず。

 

劇の本質が物語の伝達とするなら、

物語とは事実の抽象化である以上、

余計な個性を排除することが、ある意味では本質に近づく。

Spending all my time, I love you forever

一生かけても、したいこと。ありますか?

 

【PV】 spending all my time - Perfume - YouTube

 

全ての愛し愛される人のために。

 

そして私は、あなたの教えてくれた理想を実現するために生きたい。

 

 

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かしゆかは細いからダンスがきれいに見える。美しい。

のっちは背が一番高くて体格・姿勢が良く、一番ダンスが上手い。正統派。

あーちゃんはところどころ余計な動きが入るけど、その分ダイナミックさが出てる。

千万人といえども我行かん

自反而縮。雖千万人。吾往矣。

みずからかえりみてなおくんば、千万人といえどもわれゆかん

孟子の言葉

 

私の人生を表す言葉として、これがその一つに挙げられるだろう。

誰が言ってもやりたい事をやる。

流されやすい人間だからこそ、意識してきたことでもある。

持ち前の反発心、何かに対して疑ってかかることを原動力にして、

自立性を養ってきた。

子供を育てる・女性が活躍する

http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-616.html

 

タイトルの2つを成り立たせるものは、

学生のうちの子育てだろう。

だけど、学校にその機能がないし、

その意識が学生にも、もっと教員にもない。

 

子供を育てるならば学生のうちがもっとも育てやすいだろう。

時間もあるし、その時間を自由に使える。

(こうすべきというわけではなく、この選択肢がないことが問題)

これを可能にするためには、経済力がなくても、

子供を作り育てるということができなくてはならない。

日本の政府はこのような福祉ができるだろうか。

 

女性が自由に人生を選択できる。

生殖によってデメリットを生じない。

これがより良い未来、来る未来だ。

あとはどれくらいの時間がかかるか、だろうな…

 

Science Fiction の本質、または未来志向のファンタジー

SFはずいぶんと昔に流行ったのち、何回かの小さなブームを経つつも、

出版業界の縮小と共に衰退を続けている。

 

結論から言えば、SFの本質は単なるファンタジーだ。

19世紀末から20世紀初頭の「科学万能論」に対する人々の希望を、

つまり科学技術による未来の人類の発展を、

ファンタジーの形に落とし込んだのがSFだ。

 

SFに関する論説を私は知らないので、私の語る内容が、

主流なのか傍流かのかわからないが、

まず、ファンタジーの定義から始めよう。

ファンタジーとは、虚構の世界によって、現代社会の問題を暴き出す文学と定義する。

良い例がゲド戦記だし、十二国記だ。

十二国記は、あまりに単純化・虚構化されすぎていて、

最初読んだとき、作者は手抜きしすぎなんじゃないかと思った。

解説文や賞賛では、「精緻に作られた世界」と言われたりするけど…

現実の世界を知っていると、複雑さが足りず、効率はいいが崩壊も速い世界だろう。

 

それはともかく、「虚構の世界だ」と認識させられることで、

現実のしがらみや常識を取り払った状態で社会秩序や人間関係を見ることになる。

そして、現代を相対化し、外部化するのがファンタジーだ。

 

ロード・オブ・ザ・リングや、その他有名なファンタジーを例に出すまでもなく、

ファンタジーの世界は通常、現代社会よりも「遅れた文明」を持つ。

すなわち、人類が過去にそこで生活していたような、今よりプリミティブな世界だ。

ただし、そこには人間より優れた種や、魔法などの超常が存在することが多い。

 

この過去志向のファンタジーを、未来志向に置き換えたのが、

SFである。

今までの経緯からSFというジャンルになっているが、

これは今ではすごく狭い範囲の文学を差しているだろう。

むしろ、ラノベだったり、ゲームだったりの舞台設定は、

半分程度はSFと呼んで差し支えない。

しかし、SFのファンや作家は、そうした文化をSFととらえていないはず。

新しい潮流を取り入れないところには、衰退が待っているだけだ。

その意味でSFという単語には手垢がつきすぎた(=悪いイメージがつきすぎた)感がある。

また、これだけSFの概念が拡散していると、当たり前すぎてジャンルにならない気もする。

"SFファン"はこうした現状をどう見るのだろうか。

(私の知っている著名人では東浩紀さんしかSFを語る人を知らないが、どちらかと言えば、上記の論議に従うならば、この人も懐古的なSF側だと感じる。まぁ、小松左京さんやその時代のSFを乱読したとのことなので、好きな分しかたないとも言えるのかもですが)

 

つまり、SFとは、科学的な虚構(虚偽には未来に達成しうる科学技術)を用いて、

現代社会の本質を暴き出す文学と言えるだろう。

 

 

どんな社会がいいか

人々が長く健康に生きられる社会がいい。

両親にはいつまでも長生きしてもらいたい。

 

子供が脅かされない社会がいい。

大人が禁止するのではなく、子供の能力を伸ばせる社会がいい。

 

能力のある人がそれを発揮できる社会がいい。

規制ではなく、自由な競争的ルールが作られる政府がいい。

 

考えない人、能力のない人でも普通に生きられる社会がいい。

能力のある人、恵まれた人、権力に近い人だけが得をするのは傲慢な社会だ。

 

人のために役立った人が、きちんと賞賛される社会がいい。

リスクを取った人には、リスクを補うだけの名声と実益を。

 

社会に害悪をもたらした人にきちんと罰と報いがある社会がいい。

不正は人の心を暗くし、弱い人の心をたやすく挫くから。

 

水と、食料と、屋根と壁と、多少の娯楽と、人との繋がりを、

誰もが持ちえる国家でありたい。

 

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社会のインフラは、数十年から数百年にわたる、優れた財産だ。

それを賄い維持するには、これまた大きな財が必要となる。

国家に頼らない社会を構築できるのだろうか。

国家が何をできるのだろうか。

少なくとも、日本という視点では、すでに幕末から古い。

世界の中の日本、世界の中の組織、世界の中の私。

 

私が素晴らしいと思う社会と環境を実現するために、

人々を巻き込み、社会を動かしていく覚悟をもちたい。

(そう出来る人は、覚悟するまでもなく情熱を持っている)